読書日記その6 宮本輝著「野の春 流転の海 第9部」  

とうとう松坂熊吾が死んだ。房江からその知らせを聞いた千代麿が嗚咽をもらしたところで、私もたまらず声を上げて泣いてしまった。

30年以上の年月をかけて松坂一家の20年を見続けてきた。

50歳で初めての子供伸仁を授かって、この子が20歳になるまで生きることを誓った熊吾は、最後まで大将としての仕事をして71歳でこの世を去った。

20歳を過ぎた伸仁に、「わしはお前が生まれたときからずっと、この子には他の誰にもない秀でたものがあると思うてきた。・・・しかしそれは親の欲目じゃったようじゃ。お前はなんにもなかった。・・・・お前は、父親にそんなに過大な期待を抱かれて、さぞ重荷じゃったことじゃろう。申し訳なかった。このわしの親の欲目をゆるしてくれ」

と言う場面がある。伸仁は泣いているのを見られたくなくて、残ったうどんの切れ端を割りばしでつまんで口に運び続けていた。

なんともせつない場面だが、読者はみんな知っている。伸仁には他の誰にもない秀でたものがあることを。そして、魅力的な熊吾のDNAとその教えををしっかり受け継いでいることを。

熊吾の本質を見極める鋭い感覚、知性、周りの人に対してのリスペクト、そして考えの柔軟さ。彼がつぶやく言葉に私はたくさんのことを学んできた。

晩年になってからの熊吾には、以前の勢いはなく、持病の糖尿病も悪化し、歯も悪く経済的にも苦しくなっていきなんともやるせないが、最後まで大将として生き切った見事な一生だった。

こんなすばらしい男に、そしてこの連作に出合えたことは本当に幸せなこと。「心からありがとう!!」