先日、同級生とおしゃべりしてる中で、ひとりが「犬型ロボットを数年育てている」と。
日々進化するコミュニケーション型ロボット。「おひとりさまの老後には、その選択肢もありだよね!!」と盛り上がった。
それなら、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞第一作は正にそのAIロボットと少女の話。「読むなら今でしょ」と読んでみた。
舞台は近未来、とある町のAF販売店。ここで、AFという耳慣れない言葉が登場するが、人工知能を搭載したヒト型ロボットであることはわかる。主人公のクララは女子AF。まだ世に出て日が浅く、陳列されたまま外の景色を観察したり、店長や他のAFとのコミュニケーションをとる中で、旺盛な好奇心と意欲で様々な知識や判断能力を高めている。クララがローザやレックスなど他のAFと交わす会話や反応をみると、まだヒトと親密な接触はないこの段階でも、それぞれのAFにそれぞれの個性があることがわかる。また、そうであるから客は、それぞれの要望に合うAFを選んでいく。
この導入部で、クララを一人称として書かれていることに少し面喰いつつも、彼女が何を見て、どう感じ判断し学んでいくかが興味深い。たくさんのピースを組み合わせていくような複雑な思考のときは、クララが見る画面は分割され、それが整理されていく。読む手である私も、日ごろ何気なく考えていること、感じていることはこのような過程をふんでいることも気づかされる。それは、まさしく子供が学んでいく過程と同じだろうと思うし、また、発達障害などコミュニケーションに困難を感じている人は、これらどの部分が欠けているのだろうとも考えてしまう。
やがてクララは病弱のジョジ―に購入されて郊外の家へと。家族はキャリアウーマンでシングルマザーのクリシー、家政婦のメラニアとジョシー。新しい環境を早く理解してジョシーの役に立てるよう涙ぐましいクララの学習が始まる。
最初の数日間、わたしは愚かな間違いをしていました。家政婦のメラニアさんを店長さんのような人と思いこんでいたことです。そこからいくつかの誤解が生まれました。たとえば、新しい生活で注意すべきことをメラニアさんが教えてくれるものと思い、なるべくそばにいるようにしていました。メラニアさんとすれば、なぜ付きまとわれるのかわからず、わずらわしく思ったでしょう。最後には怒り出し、いきなり振り向くと、「ついてくるな、AF。どっかいけ」と怒鳴りました。わたしは驚きました。でも、やがて、メラニアさんの役割が店長さんのそれとは違うこと、悪いのはわたしのほうだったことを理解するようになりました。
幼なじみの隣人リックも加わり、クララとジョシーの友情が育まれる。途中、交流会という一大イベントが催される。そこに集う大勢の母親たちの会話から、その時代の子どもになされていることの不気味さが垣間見える。そして、ジョシーにサリーという姉がいたということも。
やがて、ジョシーは寝付くことが多くなり、クララは何とかして元気にしたいと思いつめる。一方、母親クリシーは違う方法でジョシーといつまでも過ごしたいと考えていることが・・・
結果はネタバレになるので控えるが、キーワードは「お日さま」である。子供の遺伝子にまで手を加え、足りない部分をAFを与えることで学ばせるような社会となっても、人の心の奥底にあるもの、そしてお日さまに象徴される自然のエネルギーは間違いなくあるのだ。
邪悪な心の一片さえ持ち合わせていない愛すべきクララのその後は、読者である私には哀れで悲しいと思われるが、きっとクララ自身は満足しているに違いない。満足という感情があればだが・・・・終焉の場で、クララは店長さんに偶然出会い伝えたこと、これがすべてだろう。
「カバルディさんは、継続できないような特別なものはジョシーの中にはないろ考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかったーーそう母親に言いました。でも、カバルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョシーの中ではなく、ジョシーを愛する人々の中にありました。だから、カバルディの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした」